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    -2ちゃんねる
    [20120705]
    01

    現在公開中の映画『核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝』でも見られるように、95歳になった今も全国を行脚し、命の尊さを訴え続ける医師・肥田舜太郎。
    自身も広島の原爆により被爆し、戦後、被爆者医療に60年以上携わってきた。
    当時の被爆者の惨状を知る唯一の医師に、福島原発事故以降、ますます関心が高まる内部被曝についてきいた。

    ――そもそも先生はなぜ医者を目指されたんですか?

    「小さい時から親戚や周りに病人がいて、みんなが苦労してるのがわかったのね。親族や家族にひとり重い病人が出ると、それは時に貧乏の苦労よりも大きな心配になっていく。それを見て医者になりたいと思いました。でも戦争中、やっと医者になったと思ったら、戦地から帰ってくる兵士が患者で、一生懸命やると良くなる人もいたけど、彼らは治ると家じゃなくて送られてきた部隊へ戻るわけだ。たとえ部隊が中国で行方不明でも、内地の事務はお構いなしに『戻れ』と。僕は医者として助ける任務があるから良くなるようにするんだけど、結局はまた死にに行くわけ。戦争というものに非常に疑問を抱くようになりましたね」

    ――終戦後、内部被曝の研究をしようとする学者に対し、アメリカ軍からの妨害が多々あったとのこと。それは先生ご自身にもありましたか?

    「広島で2回と東京へ来て1回、実際にアメリカ軍に逮捕されました。僕が被爆患者と接触し、診断をすると、『患者を診ること自体がけしからん』という態度でした。彼らにしてみれば、それは反米活動だと」

    ――それでも屈しなかったのは?

    「私はたくさんの被爆者から、当時でいえば神様みたいに思われていたんです。だからもし逮捕されたら、大変な数の被爆者が怒る。逆に言えばそれだけが頼みだった。『逮捕して、牢屋に入れるなら入れてみろ』と。それを信じて、やられたらやられたまでだと思っていました。自分が診なければ、普通の医者はみんな逃げちゃって、他に誰もいなかった」

    ――まさに医者としての矜持ですね。

    「目の前で、原因も治療法もわからずに死んでいく人がいるわけです。多くの人が、『自分は何に殺されるんだ』と言いながら、病名もつかないまま亡くなっていく。その状況に対する怒りが私を動かしました」

    ――戦後、被曝被害や原発に関して、東大をはじめ国立大学の研究者の多くが、純粋な研究結果から離れ、あまりに素直にGHQや政府の意向に従ったように感じます。

    「それは、自分の現状といろんな利益関係を保持したいという、私欲ですよ」

    ――しかし歴史上、足尾鉱毒事件の田中正造、水俣病の原田正純といった国や大企業に屈することなく、真実を伝えようと奮闘された方々もいます。彼らとの共通項も、やはり「怒り」でしょうか?

    「思想的にどうこうとか、そんなものは後からくっついたものなんです。やっぱり人間として医者がいちばん大事にしている『目の前の命』が、顔も見えないし誰かわからないけど、確かに誰かしらの手で、『生きられるものを殺していく』という力が働いていることに対する思いですよね。同時に、それに対する無力感もありましたが」

    ――私たち一般市民が、様々な情報に惑わされないようにするには?

    「被害を受けている国民の側に立った発言か、放射線を使う側を擁護した発言かを聞き分けるほかしょうがない。そこではっきり分かれます」

    ――先生は戦後「ぶらぶら病」(直接被爆していない人が、ある日突然身体がだるくなって動けなくなる病)の原因がわからないまま、約30年後にスターングラス博士の内部被曝に関する学説にたどり着きます。アメリカで低線量被曝の危険性に警鐘を鳴らす博士と出会い、どう感じられましたか?

    「最初はただ、『そのことに明るい人だ』ということを聞き、たまたま講演に行ったんです。その時に受付で自分の名前を『広島の被爆した医師』と書いておいたら、講演後に向こうから会いにきてくれたんです。それで『いちばん困っているのは後遺症で、日本語でいうところの「ぶらぶら病」が出て、まったく原因がわからない』という話をしました。すると、それは、体内に摂取された放射線が中から働いた症状だと。詳細は医学的にまだわからないんだけど、出てくるべき症状が出てきただけだという話を聞いて、理由はわからないけど、納得ができたわけです」

    ――博士は戦後の日本でがんや糖尿病が激増した原因は、日本中に原発があるからだとおっしゃっています。

    「僕もそう思っています。アメリカで疫学的に調べた原子炉から100マイル以内にある郡の統計を見ると、乳がんの死亡率が顕著に高い。100マイル外となると増えているところはほとんどないんです」

    ――それを日本に置き換え、原発から100マイルを同心円で描いていくと、国土全部が入ってしまう。

    「日本の県は全部入るから、入らないところと比べられないわけです。つまり日本全国が影響下にある」

    ――やはり福島では2、3年後からぶらぶら病が出てきますか?

    「わからないけど、出なきゃいいとは思っています。でも、理屈からいくと出ても仕方がない、出るほうが当然だという感じはするので、その兆候を非常に心配して見ています」

    ――先生は低線量被曝への対策として、重ね重ね「免疫力を高めるしかない」とおっしゃられています。

    「広島で実際に見たけど、同じところにいても3日後に死んじゃった人もいれば、80歳でもまだ生きている人もいる。ということは、その人の体力、健康度合いによって同じ被害を受けても出方が違う。そこが基本なんです。体内に入ったら必ず発病して死ぬわけではないんですね」

    ――原発事故が起こり、すぐ放射線被曝のことが頭に浮かびましたか?

    「聞いた瞬間、『大変なことになる』なと。国や県は誰も放射線について勉強していない。無知でしょう。放射線を作る側の説明はあっても、広島、長崎のことは医学部の内科の教科書にも書いていないわけだから」

    ――「私が立ち上がらなければ」と奮い立たれた?

    「当時から被爆者を診てきたお医者さんの、最後のひとりが今年のお正月に亡くなりました。だから広島を診たのは僕しかもういない。みんな、がんを怖がったりいろいろビクビクするんだけど、たったひとつ言えるのは、放射線に抵抗できるのは自分の命だけだということです。他人にはどうすることもできない。だから、この世の中でいちばん模範的と言われるくらい、健康を守る生活をする。自然に生きる、なんとなく生きるのでは放射線には勝てない。風邪もひかない、下痢もしない、血圧も高めない、糖尿にもならない、どんな病気にもかからず健康そのもので生きるためには努力が必要です。だから患者には『仕事帰りに居酒屋に寄って焼酎をがぶ飲みするような生活を何日も続けるな』『煙草もすぐやめろ』『それが守れなければ、もう相手にならないから好きなように死んでいけ』と言ってきました。ただし、『オレの言うことを聞くなら、オレは一生懸命病気を発病しないよう、医者としてお前を援助する』と」

    ――ちなみに先生はお酒は?

    「大好き(笑)。煙草はやめたけど、お酒は今でも飲んでます。たくさんは飲まないけど、一定量以下ならいいんですよ」



    肥田舜太郎 ● 1917年、広島市生まれ。1944年陸軍軍医学校を卒業、広島陸軍病院に赴任。1945年8月6日、原爆に被爆、直後より被爆者救援・治療にあたり、戦後67年間、被爆者治療と核廃絶運動に献身。全日本民医連理事、埼玉民医連会長、埼玉協同病院院長、日本被団協原爆被害者中央相談所理事長などを歴任。2009年に医療活動から引退。福島原発事故後に急増した取材・講演依頼にも応え続けている。現在、肥田の活動を追った映画『核の傷』と『311以降を生きる』が渋谷UPLINKほか全国順次公開中。






    肥田舜太郎 インタビュー|たったひとつ言えるのは、放射線に抵抗できるのは自分の命だけ
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    2012-07-05(Thu) 00:00 ニュース | 編集 |
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